第5部 昔の人は、なぜ病気を「邪気」と呼んだのか

昔の人はなぜ病気を「邪気」と呼んだのか

「あなたの中に邪気が入っています」

もし病院で医師からこんなことを言われたら、かなり驚くと思います。いっぽう鍼灸や東洋医学の世界では「邪気」という言葉が普通に使われています。でも、一般の人が「邪気」と聞いたらどうでしょうか。

何か目に見えない悪いエネルギーが身体に入り込んでいる。そんなものを想像する人もいるでしょう。

東洋医学はあやしい。

そう思われてしまう原因の一つは、こうした用語にあるのではないかと思っています。実際、「邪気」という言葉は、かなりあやしい。いや、邪気そのものがあやしいと言っているのではありません。

「邪気」という日本語から受ける印象があやしいのです。

「邪」という字からは、邪悪、邪念、邪霊などを連想します。しかも実体がわからない「気」という文字が重なります。

いかにも目に見えない悪い何かが身体に入り込んでくるようです。では、二千年ほど前の医者たちは、本当にそんなことを考えていたのでしょうか。古典を読んでみると、どうも様子が違います。

邪気について書かれた篇

中国最古級の医学書である『黄帝内経』の『霊枢』に、「邪氣藏府病形」という篇があります。「第1部」から頻繁に登場する篇です。

よくよく考えたら名前がスゴすぎです。

邪気、臓腑、病形。

現代人から見るとあやしさたっぷりです。

この『黄帝内経』という本は黄帝が岐伯という医者に「〇〇とはなんぞや?」と尋ねる問答形式です。

黄帝が岐伯に尋ねます。

邪氣之中人也奈何?(邪気が人に中るとは、どういうことなのか。)

すると岐伯は、

邪氣之中人高也。(邪気が人に中るのは高いところである)

と答えます。

さらに、

身半以上者、邪中之也。身半已下者、濕中之也。
(身体の半分より上には邪が中り、半分より下には湿が中る)

と説明します。

この文章を読む時に大切なのは、何を観察しているのかです。身体のどこが外界の影響を受けやすいのか、という話をしています。

邪気はいつでも入ってくるわけではない

さらに読み進めると、もっと具体的になります。

中人也、方乘虛時、及新用力、若飲食汗出、腠理開而中於邪。
(邪が人に中るのは、身体の虚に乗じたときである。力を使った直後。飲食して汗が出ているとき。腠理が開いているとき)

そういうときに邪を受ける、と説明しています。「腠理」という聞き慣れない言葉が出てきます。皮膚や筋肉などのきめや間隙を表す古代の身体概念で、ここでは外からの影響を受ける身体表面の状態くらいに考えておけばよいでしょう。このように身体の状態と外部環境との関係を説明しようとしているのです。

この篇や『内経』全体で語られていることを、かなり大ざっぱに現代の日常感覚に引き寄せれば、こんな話です。

 疲れているときに体調を崩す。
 汗をかいたあとに身体を冷やして具合が悪くなる。
 寒い時期には特定の病気が増える。 
 湿度や季節によって体調が変わる。

そうだよね、という簡単な話です。現代に生きている私たちにも、経験的に理解できる話ですよね。タイトルが「邪気…」ですが、少なくともここで語られている中身はこんな感じです。私たちが「邪気」という言葉から想像するような、オカルト的な話とはかなり違います。

昔の人には原因が見えなかった

ここで少し、二千年前の世界を想像してみます。

当然ですが、当時の人には顕微鏡がありません。ウイルスも知りません。細菌も知りません。免疫細胞も知りません。自律神経もホルモンも知りません。でも、病気にはなりました。

 寒い日に体調を崩す人がいる。
 湿気の多い季節に調子が悪くなる人がいる。
 疲れていると病気になりやすい。
 同じ環境にいても病気になる人と、ならない人がいる。

原因そのものを見ることはできなくても、原因らしきものと身体に起こる変化との関係は見ることができます。そこで古代の医者たちは、身体に悪い影響を及ぼす働きを「邪」として捉え、その一つとして外界から受ける影響を説明しました。

ここで注意したいことがあります。「邪気とはウイルスのことだった」と言いたいわけではありません。そんな単純な置き換えをしたら、かえって古典から離れてしまいます。

 風、寒さ、湿気、環境、身体の状態。

いろいろな条件によって病気が起こる。それを当時の知識と言葉で説明しようとしたときに、「邪」という概念が必要だったのでしょう。

病気になるかどうかは「邪」だけでは決まらない

『邪氣藏府病形』を読んでいて、私はさらに面白いところに気がつきました。この篇は、外からやってくる邪だけを問題にしているわけではないのです。

こんな記述があります。

邪入於陰經、則其藏氣實、邪氣入而不能客。
(邪が陰経に入ってきても、藏の気が充実していれば、邪気はそこに「客」することができない。)

「客」というのは、そこに居着くということです。つまり、邪が入ってくれば必ず病気になる、という考えではありません。受け入れる身体の状態によって結果が違うのです。

これは現代の感覚でも理解できます。同じウイルスに曝露しても、全員が同じように発症するわけではありません。同じ寒さにさらされても、全員が体調を崩すわけではありません。もちろん、古代中国医学と現代の免疫学が同じことを説明しているわけではありません。

ここで重要なことは、外から何が来たのかだけではなく、それを受ける身体がどんな状態だったのかを観察していることです。

むしろ「脱オカルト」だったのではないか

「邪気」という言葉があるから、東洋医学はあやしく見える。ところが、古代中国医学の歴史をたどると、それ以前には病気を鬼神や祖先などの超自然的な存在と結びつけて考える疾病観もありました。

それに対して『黄帝内経』の世界では、病気を気候、環境、飲食、疲労、感情、身体の状態などとの関係から説明しようとする傾向が強くなっていきます。

つまり、

病気を超自然的な世界から、観察できる身体の世界へ引き戻そうとしていた。

そう考えることもできるのです。だとしたら、ちょっと皮肉です。現代の私たちは「邪気」という言葉を見て、「昔の人は目に見えない不思議な力を信じていたんだな」と思ってしまうわけです。でも、『黄帝内経』を読んでいると、むしろ逆方向を向いていたように見えるのです。

目に見えない神や霊のせいにするのではなく、

 どんなときに病気になるのか。
 身体のどこから影響を受けるのか。
 どんな人が病気になるのか。
 身体にはどんな変化が現れるのか。

そういうことを観察して、何とか説明しようとしていたのです。

古典を神秘化してしまう私たち

もう一つ考えたいことがあります。「邪気」を神秘的に感じているのは、一般の人だけではありません。鍼灸師の側でも、邪気という言葉を目に見えないエネルギーや精神世界と結びつけて説明することがあります。

そういう世界観そのものを否定するつもりはありません。そこに価値を感じる人がいてもよいと思います。ただ、それと『黄帝内経』を書いた人たちが何を説明しようとしていたのかは、いったん分けて考えた方がよいと思っています。

『邪氣藏府病形』に書いてあることは、具体的です。

 寒さ
 湿気
 汗
 疲労
 飲食
 身体の部位
 皮膚
 顔色
 脈

古代の医者たちは、目の前にいる人間をかなり細かく観察しています。

古典の言葉を守るということ

私は「邪気」という言葉を使うのをやめた方がよい、と言いたいわけではありません。

むしろ真正面から向き合うべきなのです。歪めてはいけません。

古典の言葉を大切にするのであれば、その言葉が本来どのような文脈で使われていたのかを丁寧に考える必要があります。古典を大切にするということは、古い言葉をそのまま唱えることではありません。その言葉を使って、当時の人が何を見ようとしていたのかを考えることです。

彼らには顕微鏡がありませんでした。細菌学も免疫学もありませんでした。それでも、目の前で起こる現象を観察し、病気が起こる仕組みを説明しようとしました。

その説明は、現代から見れば間違っているところも当然あるでしょう。でも、間違っていることと、あやしいことは同じではありません。

二千年前の人たちが、当時手に入る知識と観察から身体を理解しようとした。その痕跡が古典には残っています。だから私は、「邪気」という言葉を見たとき、そこに神秘を見るよりも、その向こう側にある古代の医者たちの観察を見たいと思っています。

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