東洋医学の世界では、古典に書かれていることを疑ったり、昔から伝わる考え方を別の角度から考えたりすると、「伝統を壊している」と見られることがあります。私はこれが理解できません。
たとえば、長い修練によって身につけた感覚があるとします。本人にははっきりわかるけれど、他の人には簡単にはわからない。言葉で説明することも難しい。それでも昔から受け継がれてきたものだから大切にする。
こうした態度は「伝統を守る」と見られやすいように思います。
いっぽうで、その感覚をできるだけ言葉にし、何を感じているのかを整理し、他の人でも同じものを見つけられるようにする。さらに、同じようにやれば同じ結果が出るのかを確かめる。
その過程で、昔から使われてきた言葉をあえて使わないことがあります。実例として挙げるなら「気」です。実は、これは私のことです。「気」という言葉を使う必要性を感じません。というより「気」という言葉を用いた瞬間から共有がむずかしい状況に陥るのです。
「気ってなんですか?」
この回答は無限にあります。意味を一つに絞ることができません。絞った時点で、それは私の解釈、あるいは私が選んだ解釈になります。そもそも「気」という言葉は、あまりにも多くの意味を背負ってしまい、何を指しているのか見えにくくなっています。だからこそ、さまざまな解釈を呼び込んでしまいます。
「東洋医学は気の医学」
という表現を目にしますが、「気」という言葉の曖昧さをそのまま引き受けて読むと「東洋医学は意味がよく見えない医学」となってしまいます。これは皮肉でも何でもありません。東洋医学を否定したいわけでもありません。むしろ逆です。低解像度のままにしたら東洋医学の魅力が減衰してしまうことを危惧しているのです。
誤解しないでください。「気という言葉を使うな」と言いたいのではありません。「気」という言葉を使う人が「伝統を受け継ぐ者」である、という前提がおかしいと言いたいのです。意味がわからないのにどうやって継承するのか、と思うのです。
「わかる人にはわかる」という世界
鍼灸を学んでいると、経験を積むことで見えなかったものが見えるようになる、という話によく出会います。
脈がわかるようになる。ツボがわかるようになる。さらに修練を積めば、気の流れや経絡まで感じられるようになる。初心者にはわからなくても、熟練すればわかるようになるという考え方です。
これについては、私にも思い当たるところがあります。鍼灸師になったばかりの頃と今では、指先から得られる情報量がまるで違います。昔は同じようにしか感じられなかった場所にも、今では違いを感じます。
修練によって感覚が鋭くなることに異論はありません。
ただ、ここで疑問があります。
熟練した人にしかわからないものを、どうやって次の世代に渡すのでしょうか。
感覚は継承できるのか
ある鍼灸師が患者の身体に触れて、「ここに気の滞りを感じる」と言ったとします。本当にそういう感覚があるのかもしれません。私に感じられないからといって、存在しないとは言えません。
では、別の鍼灸師が同じ患者を診たら、同じところに同じものを感じるのでしょうか。違った場合はどうでしょう。そこで「まだ修練が足りない」と言われてしまえば、もう何も言えません。
私は、自分にしかわからない感覚をできるだけ減らすようにしています。感覚を軽視しているからではありません。むしろ感覚は重要です。ツボを探すにも感覚が必要ですし、身体のわずかな違いを感じとれるに越したことはありません。
だからこそ、その感覚を人に渡せるようにしたいと思っています。
練習すれば、多くの人が同じものを見つけられる技術にしていきたいのです。
「名人にしかわからない」という状態を簡単に受け入れるべきではないと思っています。その名人が亡くなれば、その技術も一緒になくなってしまう可能性があるからです。継承を考えるなら、「名人にはわかる」で話を終わらせてはいけません。
わかったような気になる
身体に触れて、ある場所に何か違いを感じたとします。硬い、柔らかい、熱い、冷たい。あるいは、うまく言葉にできないけれど、何か違う。
ここまでは観察です。
では、それを「気が滞っている」と判断したらどうでしょう。そこには解釈が入ります。さらに陰陽、虚実、五行、経絡などと結びつければ、一つの説明ができるようになります。
私は、ここを分けて考えたいのです。
何かを感じたことと、その正体がわかったことは同じではありません。
東洋医学には、陰陽、五行、気血、臓腑、経絡など、身体を説明する大きな体系があります。それぞれが関係しているので、ある現象を説明すると、それが別の現象ともつながります。さらに古典にも似た記述が見つかれば、説明はますます確かなものに見えてきます。
説明がつながると、わかったような気になります。
私も同じことをしている
このように書くと、伝統的な東洋医学を問題にしているように見えるかもしれません。でも、この問題は私にも当てはまります。
私は臨床の中で、あるツボに鍼をすると、離れたところの動きが変わるという現象を何度も経験してきました。そこから、ツボと身体の動きには何らかの関係があるのではないかと考えるようになりました。
さらに、そうした関係を調べていく中で、身体に生じる張力が関係しているのではないかという仮説も立てて臨床に活かしています。ただ、それは私がそう考えているだけかもしれません。
だから、確かめるのです。
同じことがもう一度起きるのか
まず自分で繰り返します。同じような条件で、同じことが起こるのかを確認します。
たとえば、ある腰痛に一つのツボを使ったら、痛みが軽くなったとします。別の腰痛にも同じツボを使ってみる。ところが今度は変化しない。
「このツボは効く人と効かない人がいる」
そう考えることもできます。
しかし、
「最初の腰痛と次の腰痛では、何が違ったのだろう」
と考えることもできます。
同じところが痛くても、一人は前に曲げると痛く、もう一人は捻ると痛いかもしれません。同じ前屈でも、曲げ始めに痛む人と、最後まで曲げたところで痛む人がいます。同じ「腰痛」に見えても、別の問題なのかもしれません。
分類は共有するためにある
「腰痛」という分類では粗すぎるのであれば、もう少し細かくします。
どこが痛いのか。どの動きで痛むのか。どこまで動かすと痛むのか。何ができないのか。
条件を細かくすると、それまで同じに見えていた患者の違いが見えてきます。そして条件がそろうほど、同じツボで同じ変化が起こる可能性も高くなります。
すると、
「腰痛にはこのツボ」
ではなく、
「こういう動きができない場合には、このツボを試してみてください」
と伝えられるようになって、他の鍼灸師が試せるようになります。
分類するのは身体を理論の中にきれいに収めるためのものではありません。他の鍼灸師と条件を共有するためです。
自分だけ再現できても足りない
自分で何度も再現できるようになったら、他の鍼灸師にやってもらいます。同じような条件の患者に、同じツボを使って同じ変化が起こるのかを確認します。
他の鍼灸師でも再現でき、さらに別の鍼灸師でも再現できれば、自分だけの感覚ではないと言えるようになります。
逆に再現できなかったら、なぜだろうと検証します。
取穴が違ったのか。
技術が違ったのか。
患者の条件が違ったのか。
分類が粗かったのか。
再現しないことは失敗ではありません。再現できなかったことが、次に考えるべきことを教えてくれることがあります。
変化を共有する
私は、鍼をする前に動きを確認し、鍼をしたあとにもう一度同じ動きをしてもらうことを大切にしています。動きは施術前後の変化を比較しやすく、患者さんとも共有しやすいからです。
首を動かす。
腕を上げる。
腰を曲げる。
歩いてもらう。
その結果、変わったのか。変わらなかったのか。
この変化を患者さんと共有しています。
可動性で判断できない症状では、圧痛点(押して痛いところ)を指標にすることもあります。ただし、圧痛は患者さんの主観に頼る部分が大きくなります。検査結果の数値も客観的な指標ですが、鍼灸の現場ですぐに確認できないのが難点です。
医学に信仰は必要ない
古典を正しいものとして受け入れてしまうと、身体を観るときに「現象を確かめる」ではなく「古典を理解する」ことに比重が偏ってしまいます。
たとえば、このような状態です。
わからないことがあれば、自分の理解が足りないと考える。
矛盾するものがあれば、さらに深い意味があるのではないかと考える。
一見すると、謙虚なように見えますが、先人の考えそのものを疑うことができなくなっている状態です。すでに信仰の入口に立っています。
私は信仰と医学を切り離して考えます。東洋医学も医学であるなら、信仰を切り離して考えるべきです。古典は、当時の人が何を見て、どう考えたのかを残した記録として読めばよいのです。そこに最初から真理が書かれていると考える必要はありません。
「私にはわかる」より「私たちにもわかる」
伝統という言葉には、どうしても過去を向いている印象があります。
どこから伝わってきたのか。誰から教わったのか。古典にどう書かれているのか。
もちろん大切ですが、継承を考えるなら、もう一つの方向を見なければなりません。
これから、どこへ伝わっていくのか。
自分がいなくなったあとにも残るのか。
教えた人が、さらに次の人へ教えられるのか。
その人が自分で確かめ、必要なら修正していけるのか。
そのために分解する。分類する。言葉にする。他の鍼灸師に試してもらう。再現しなければ考え直す。その過程で、昔から使われてきた説明が変わることもあるでしょう。新しい分類が生まれることもあるでしょう。「気」という曖昧な表現を避け、できるだけ多くの人が同じ意味で共有できる言葉に置き換えていくのです。
名人だけが到達できる「わかる世界」はお話としては魅力的ですが、伝統を重んじるならそこに身を委ねてしまうわけにはいきません。継承しようとするなら、できるだけ共有できる形にしなければなりません。ここを忘れてはいけないと思っています。
東洋医学も鍼灸も「私だからわかる」は少なくてよいのです。継承は「私たちにもわかる」から始まります。
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