その違和感は、鍼灸を育てる才能です

その違和感は鍼灸を育てる才能です 勉強会

鍼灸を学んでいると、「どうして、そのツボを選ぶのだろう」「何を手がかりにすれば、自分にもできるようになるのだろう」と思うことがあると思います。

質問をすると、「感覚でわかる」「経験を積めばわかる」と返ってきます。経験が必要なのは理解できても、何を意識して経験を積めばよいのかがわかりません。

こうしたやりとりが続くと、自分には感性が足りないのではないか、鍼灸師に向いていないのではないかと考えてしまう人もいると思います。ただ、説明に納得できない自分は適性がないと考える必要などありません。教える側が言語化できていなかったり、技術を整理できていない場合もあるからです。

理由を知りたい、自分でも確かめたいと思うのは、学ぶうえで自然なことです。私は、そうした疑問を口に出せる雰囲気が鍼灸の世界にもっと必要だと考えています。

私が考える「科学的な鍼灸」

私は、鍼灸に科学的であろうとする姿勢が必要だと考えています。ただ、「科学的」という言葉は、何を指しているのかを説明しておかないと、誤解を招くかもしれません。

効果を裏づけるエビデンスがあるのかと受け取る方もいるでしょう。研究によって効果や安全性を検討することは大切です。そのうえで、私が定義したい「科学的な鍼灸」は、日々の臨床や学びの中で、観察や説明を他の人と検討できるようにし、必要に応じて考えを修正していこうとする鍼灸です。

たとえば、施術の前後で何が変わったのかを確かめます。その変化について、実際に観察できたことと、推測したことを分けます。他の人が同じ手順を使ったときにも、同じような変化が起きるのかを調べます。説明に合わない結果が出たら、条件や考え方を見直します。こうした積み重ねです。

一度うまくいったことは、次に考えるための手がかりになります。ただ、それだけで施術の効果や仕組みが証明されたとは言えません。何度か似た結果が得られても、ほかの要因が関わっている可能性は残ります。

だから、どこまで確認できていて、どこから先はまだ仮説なのかを整理しておく必要があります。「科学的であろうとする姿勢」とは、自分の経験や説明についても、確かめ直す余地を残しておくことだと考えています。

「変化があった」の先を考える

臨床で変化が出ることは大切です。そのうえで、どのような意図で施術を行い、何をもって変化を判断したのかにも関心があります。

施術後に身体の動きが変わったとしても、変化を狙って手順を選んだのか、施術の結果として気づいたのかでは、そこから検討する内容が違ってきます。どちらも観察する価値がありますが、「可動域が変わった」という言葉だけでは、技術の組み立てまではわかりません。

どこを変えようとしたのか、なぜそのツボを選んだのか、狙いと違う結果になったときにはどう考えるのかまで共有できれば、他の人が学ぶための手がかりが増えます。

私は、結果とともに、その結果に至る考え方や手順も検討したいと思っています。それによって、うまくいったときにも、いかなかったときにも、次に考えることが見えてくるからです。

感性をどう伝えるか

臨床では、言葉にしにくい感覚を使うことがあります。触れたときのわずかな違いや、患者さんの反応から判断することもあります。経験によって気づけることが増えるというのは経験的に確かです。

その感覚を、どうすれば共有できるのかということも私のテーマです。

何に触れて、何を違いとして捉えているのでしょうか。触れ方や比較する場所を揃えると、共有できる部分はあるのでしょうか。すべてをすぐに言葉にできなくても、手がかりを増やすことはできるかもしれません。

感覚には個人差があります。ある人にはすぐわかることが、別の人にはわからない場合もあります。そのとき、わからない側の能力だけを問題にしてしまうと、伝え方を検討する機会がなくなってしまいます。

私自身、人に説明しようとして、うまく言葉にできないことがあります。そこで考え直すと、自分でも十分に理解できていなかったと気づくことがあります。伝え方を考えることは、自分の理解を確かめる作業にもなっています。

古典の価値を見直す

古典についても、同じように考えています。

古典には、先人が何を観察し、どのように身体を捉えていたのかを知る手がかりがあります。当時の言葉や背景を踏まえて読むことで、現在の自分にはなかった見方が得られることもあるでしょう。

その記述を現在の臨床でどう扱うかについては、改めて検討が必要です。何が観察できるのか、どこまで説明できるのか、解釈がいくつもあるなら、それぞれにどのような根拠があるのかを、一つひとつ整理したいと思っています。

古くから伝わっていることは、それだけで正しさの根拠にはなりません。一方で、古いという理由だけで検討する価値がなくなるわけでもありません。

受け継がれてきたものを冷静に見直し、使える知識として次に渡すために何ができるかを考えることも、私にとっては探究の一つです。

一人の経験を、みんなで検討する

こうした作業を、一人の経験と判断だけで進めることには限界があります。

自分の臨床では成り立つように見えた説明が、別の人の臨床では当てはまらないこともあります。その違いを調べると、見落としていた条件がわかるかもしれません。説明そのものを修正する必要があるかもしれません。

だから、組織やチームで取り組む意味があります。それぞれが経験したことを持ち寄り、共通する点や異なる点を検討します。うまくいかなかったことも共有できれば、個人の中で終わっていた経験を、他の人が考える材料にできます。

そのためには、経験の長さや立場にかかわらず、疑問を出せることが必要です。学び始めた人の質問によって、長く使ってきた説明の曖昧さに気づくこともあります。教える側が答えを持っていない場合には、そこから一緒に考えることもできます。

私は、どうすれば理解しやすくなるのか、どうすれば共有できるのかを考えることにも面白さを感じています。臨床で何かを発見することと、それを他の人が使える形にすること、どちらも取り組んでいます。

共有した知識や技術が、別の鍼灸師の臨床で役立ったと聞くと興奮します。自分が直接会わない患者さんにも届き、その経験から、また新しい疑問や工夫が生まれます。そうして知識が増え、見直されながら続いていくことに、個人の枠を超えた価値を感じています。

疑問を持つことも、鍼灸に必要

鍼灸を学ぶ中で、理由を知りたい、自分でも確かめたいと思う気持ちを抑え込む必要はありません。現場では色々な疑問がわいてきますし、腑に落ちないこともたくさん経験すると思います。

今の環境だけで「鍼灸とはこういうものだ」と決めつける必要はありません。 鍼灸に携わる人の考え方は本当にさまざまです。私は疑問を持てることが才能だと考えています。わからないことを、わかったように振る舞ってしまったら成長は止まります。

鍼灸には、経験から得たことを伝える人も、それを問い直す人も必要です。「なぜだろう」と立ち止まる人がいることで鍼灸は発展します。だから「なぜだろう」を抱く人材こそ鍼灸業界が大切に育ててなければいけないのです。

今回は、この業界に長くいる者として感じていることを僭越ながら書かせていただきました。

コメント

タイトルとURLをコピーしました