前回のブログ「間抜けな鍼灸師」で「うまいやつは機を守る」と書きました。
私は、この「機」をタイミングと解釈し、「できる鍼灸師はタイミングがスゴイ」という論を展開しました。ここにコメントが入り、「機」は「タイミング」ではないとの意見を頂きました(コメント参照)。「機」は「気」もしくは「気機」と解釈すべきだと。
まさか、ここを突っ込まれると思っていなかったので、嬉しくなってしまいました。
ツッコミの内容はごもっともで、私の書き方が不適切であったことは認めます。
でも、説明不足の問題で間違いではないと考えています。
説明を省略したのは、あまりにも長くなりすぎるからです。今回の記事がとんでもなく長いように(笑)
しかも、ブログにしてはマニアックすぎる内容。でも、一般の人に鍼灸の魅力を伝えたいので、わかりやすくがんばってみます。
■マイノリティ・リポート
「機」を「タイミング」と解釈するのは一つの解釈にすぎません。多数決をすれば負けてしまうかもしれません。でも、間違っていないと思うのです。その理由があります。突然ですが、このブログでそれを発表します(未発表)。
「機」をどう解釈するかで、鍼灸術の有り様が変わってしまうので、譲れないところがあります。
一介の鍼灸師のたわごとだと思ってお付き合いください。
■九鍼十二原篇(鍼のポイント!)
2000年以上前に書かれた、鍼灸書に『黄帝内経霊枢』というのがあります。
その中に「九針十二原編」があり、「�跏守関、上守機」と一文があります。
小鍼之要、易陳而難入。
�跏守形、上守神。
神乎、神客在門。
未睹其疾、悪知其原。
刺之微、在速遅。
�跏守關、上守機。
「小鍼の要」と、ここは鍼の技術の要点を述べるところです。
2行目の「�跏守形、上守神。」
と最後の「�跏守關、上守機。」
この2つの文章は同じ意味。
言い換えだと私は解釈します。
・ 形 → 關
・ 神 → 機
「形」とか「神」とか言われても、普通は何の事かわかりません。
この抽象的な表現をたとえ話にしたのが、「關」と「機」ではないかと私は考えています。
ポイントは同じパターンの文章が2つ並んでいること。
初めが抽象論、2番目が具体論と解釈するのが自然なように感じます。
「關」とは具体的に何か…、「機」とは具体的に何か…
手元の解説書『現代語訳 黄帝内経霊枢上巻(東洋学術出版社)』によると、
「關」は「四肢の関節」、「機」は「気の動静」とあります。
でも、この解説に疑問があります。下手な鍼灸家は「四肢の関節を守る」というのはおかしな話です。ツボの中でも特別扱いをされているツボを「要穴」と言いますが、この要穴は関節周辺にもたくさんあります。実際にさまざまな流派で関節周辺のツボは重宝されていますから、この解釈は腑に落ちません。
「気の動静」、意味が飛躍しています。
これは同じく『黄帝内経霊枢』の「小鍼解編」の、
上守機者、知守気也。
機之動、不離其空中者、知気之虚実、用鍼之徐疾也。
という文章を参考に解釈されたものだと思います。
・ 機 = 気
と解けます。
でも、「九鍼十二原篇」は1番目の篇、「小針解篇」は3番目。
後に書かれている説明を根拠に前の文章の解釈をするのは、ちょっとズルイ感じがします。
「九鍼十二原篇」の「�跏守關、上守機。」は、他の篇に依存せず、その場で何かを伝えているはずです。権威にたてつくことになりますが、オカシイものはオカシイのです。
■はたおり
私は、「關」と「機」は機織り用語だと解釈します。
鍼灸術を、誰でも知っている機織りに喩えたのです。
※『黄帝内経霊枢』が書かれたのは2,000年以上前ですが、機織りはそれよりずっと昔からあったことは確かです。
■關の意味
「關」を『康煕字典』(こうきじてん)で調べると「通すこと」とあります。

また、『角川最新 漢和辞典』には、「もんがまえ」の中にある字は、糸の省略形に「左右を通す」という文字を合わせたもので、機織(はたお)りの時、糸を左右に通すと丁寧に解説されています。

「關」に「関節」の意味もありますが、それは数あるうちの一つでしかなく、その意味に縛られる必要は全くありません。むしろ、ペアとなっている「機」と合わせて考えるなら、「通す」という意味に解釈する方が自然です。
■機の意味
では、その「機」とは…
『康煕字典』の集韻の項には「織具」とハッキリ書いてあります。

「杼」とは、「緯糸(横糸)を通すための器具」です。
糸を巻いた軸がクルクル転がるようになる仕掛けになっています。
また、『角川最新 漢和辞典』には「はたおりの縦糸を動かす機の部分品」とあり、「布を織るしかけ」ともあります。
■關と機
すると、
關は「横糸を通すこと」
機は「経糸を動かす仕掛け」
という意味になります。
ここで、
�跏守關、上守機。
の意味をもう一度考えると、
下手な者は、横糸を通すことを大事にするが、
上手な者は、縦糸の仕掛けを大事にする。
と解釈できます。
これならば、
「�跏守形、上守神。」
の言い換えとして腑に落ちるのです。
もう少し説明しないと、なぜ腑に落ちるのかわからないかもしれません。機織りの仕組みを考えると納得していただけると思います。
■機織り名人のテクニック
私は機織りをしたことがないので詳しく書けませんが、難しいのは縦糸の制御らしいのです。どのタイミングでどう縦糸を動かすかです。知らない者には、機織りの仕組みが全くわかりません。頭に浮かぶのは横糸を通すあの動きだけ。縦糸をどうやってコントロールしているのか全く想像がつきません。下手な者が横糸を通すことしかわからないのは当たっています。
機織りについて言えば、「上手下手の区別は縦糸のコントロール」という結論に達しました。機織りの仕組みや仕掛けを十分に理解し、その上でタイミングよく縦糸を動かす。
これを医学に置き換えれば、
身体の仕組みと生命活動を十分に理解し、その上でタイミングよく経脈を動かす。
となるのです。
タイミングという言葉に至るには、もう一つの理由があります。
�跏守關、上守機。
の直前に、
刺之微、在速遅。
とあるからです。速い遅い、というように動作スピードについて触れています。
これも、言い換えだと解釈すると、機は「仕組みを理解した上でのコントロール」となり、タイミングを計る、という意味に解釈するのが最も適切となります(タイミングというのは仕組みがわかっていないと計れないものですから)。
■小針解編で種明かし
刺之微在速遅者、徐疾之意也。
�跏守関者、守四肢而不知血気正邪之往来也。
上守機者、知守気也。
機之動、不離其空中者、知気之虚実、用鍼之徐疾也。
「気を守るを知るなり」とありますが、「生命活動を理解している」と解釈できます。
生きている者は、常に変化をしています。その変化をきちんと追いかけられないとダメだよ、ってことだと思うのです。
「鍼では、変化を観察し適切な時を狙いなさい」ということになりますから、まさに「タイミングが重要だよ」ってことなのです。
このように小針解編では、たとえ話を使わず医学用語で「機」の説明をしているのだと思います。九鍼十二原篇のたとえ話は、まだ理解が浅い読者に対する配慮だと考えられます。
「九鍼十二原篇」で「機」の抽象的表現であった「神」は、「人体の仕組み」もしくは「自然の摂理」のことを言いたかったのではないかと思います。大事ではありますが、突然そんな話をされたらわかりませんから、機織りに喩えて説明したのだと思います。
■経絡と棚機(たなばた)
東洋医学では気の流れる経路を「経絡」と読んでいます。経は縦の道筋、絡は、その縦を結ぶ横の道筋です。縦横に糸を編む織物をたとえ話にしていることは十分に考えられる話です。
「七夕(なたばた)」は、「もともと棚機(たなばた)」と表記されていました。古来から機織りが行事になっていたことを考えると、『黄帝内経霊枢』が書かれた時代から、機織りは身近な仕事であったことは容易に想像できます。身近なものだから、「關」や「機」だけで他に説明はいらなかったのかもしれません。ちなみに中国における七夕の起源は、春秋戦国時代の中期、完成は後漢の末期との説があります。この頃はちょうど『黄帝内経霊枢』が書かれた時代と一致しています。その時期は明らかではありませんが、紀元前後の200年(山田慶兒説※)があります。
※「中国医学はいかにつくられたか」P.73参照
■最後に
裏付けをとって、文章に起こすのに7時間かかりました。
これまでの記事で最長だと思います(笑)
コメントをいただいたおかげで、自分の解釈がすっきり整理できました。
独自の説ですが、もし似たような論文をご存じの方がいらしゃいましたら、ぜひ教えてください。
ここから突っ込まれると答えられないので、今回の記事に関しての質問はご遠慮くださいね。



コメント
栗原先生おつかれさまでした!大変参考になりました。私もこの分野ではまだまだですが、古典の解釈には様々な角度から見なければならないというややこしさがあります。前後の文章の関連から、内容がスッキリしなければ、一字に対してかなりの時間や日数、はたまた数年かけて調査する必要があるからです。しかし臨床を通しして古典を読んでいると、現時点での自分の行っていることに対することへの「ひらめき」や「気づき」また「再検討」することもまた大事なことです。
それが患者さんの症状や身体所見に対して深く突っ込んで診ているといることと共通するので、栗原先生も中々「できる鍼灸師」ですよ!
>鉄漢さん
疲れました(笑)
参考にしていただけて光栄です。古典は好きなところ(気になるところ)を拾い読みしているレベルなので、お恥ずかしい限りです。長い年月をかけて、少しずつ勉強していきたいと思います。鉄漢さん(私には先生と付けていただいているのに「さん」ですみません。このブログの中では、どなた様にも「さん」に統一させていただいています)のブログに出てくる古典の紹介、いつも楽しみにしています。
>クリさん
「さん」つけ了解しています。では私もあえて(笑)クリさんで!ブログ読んでいただいて有難うございます。本来は患者さんに対してのものと思っていたのですが、段々と趣旨から離れていってしまい専門的になっているのが現状です。もうお持ちかもしれませんが、医道の日本社から出版されている家本誠一先生の素問訳注と霊枢訳注は内容ともわかりやすくお勧めです。ちょっとのお節介でした!
>鉄漢さん
書籍の紹介ありがとうございます。もっていない本なので、ぜひ買ってみます。専門書は一冊一冊が高価なものが多いので、おすすめしていただけると助かります。鉄漢さんのブログを拝見していて、鉄漢さんのような古典に強い鍼灸師、カッコイイなと思います。追いつけなくても、後ろ姿が視界から消えないように頑張ります!
先日、話題にあがっていました「柳谷秘法一本鍼伝書」の木戸正雄先生版、購入して大変よかったと思っています。すぐに臨床に活かせてよい結果を得ています。ありがとうございました!
>クリさん
お役に立ててよかったです。またチョクチョクブログにて書籍アップしていきますね。まだまだカッコいいレベルではありませんが、思うようにやっていきたいと思っています!上守機ですよ!
>鉄漢さん
よろしくお願いします。
楽しみにしています♪
詳論拝読しました。小生の質問にお答え下さりありがとうございます。
「関」を、要穴のある「四関」と解するのはおかしいという見解は、とてもするどい指摘で目を開かれるものがあります*。そうした問題意識から展開された「関」と「機」の解釈は、とても斬新ですね。「関」を「通」、「機」を 「織具」と訓詁し、それぞれ転じて「横糸を通すこと」「経糸を動かす仕掛け」と解するのは卓見だと思います。
ただ、『霊枢』九鍼十二原中に展開された「小鍼の論」の全体を通じて、それを適用できるかどうかは、まだ疑義がありますので、それについては直接メールで述べさせて下さい。
*私自身は、渋江抽斎の「関謂形、機謂気。不必四支関節(関は形を謂う、機は気を謂う。必ずしも四支関節ならず)」に同意見で、あくまでも「関」は「形」の言い換えであるから、「四関」に限る必要はなく、「外形」と解するべきという見解です。
それに対して「神」は、馬蒔の解「人之神」に同意で、本神「生之来謂之精、両精相搏謂之神」や天年「失神者死、得神者死」に示される「神気」のことと考えています。「外形」に対する「内気」といってもよいでしょう。そこから敷衍して「神」の言い換えである「機」を「気」ないし「気機」と解しています。
詳しくは、後ほど。
>吉岡先生
栗原先生のブログにて失礼いたします。いつもお世話になっています。ご質問の先生が吉岡先生とは察しがつきました。流石に鋭いですね。また九鍼十二原篇に関しての記載事項について、今週の日曜日に定例会の方で講座として行うのですが、私のブログの方で一部を後日アップしますので、ご意見下さい。ご多忙の中よろしくお願いいたします。
>栗原先生
先生のブログをこのように使用したことお詫びいたします。ごめんなさい。
>クリさん
何度もすいません。クリさんの独自の説の論文が見つかりましたよ!論文というか、あの丸山昌朗先生の九鍼十二原講の解説部分にタイミングのことについて記してあります。前文の「刺す微は速遅にあり」で「速遅」をタイミングと解釈されています。それから「関」を穴の位置、「機」のところでの解釈を「もとの意味は織機の中の足で踏んだり、手で廻したりする運動を糸の方に伝える心棒であるが、これから弓に力を生じ矢を発することの意味ともなっている。ここでは正気が充足し、邪気が除去された神の存在感である。先の速遅と同義である」とあります。
また考察では、『機に就いて、荘子の至楽篇中に、「万物は皆、機より出て、而して皆、機に入る。」などの文がある。この文意は、旱天続きに種を蒔いても発芽しない。同様総てのものが生じ変化する原因には、タイミングが合うということが最大要因であると云っているのである。この荘子の思想から本論篇の「機」の概念が産出されたものであろう。』とあります。
日本内経医学会発行の黄帝鍼経講:丸山昌朗先生没後二十周年記念出版(絶版)より
ちなみに丸山先生がそれ以前に書かれた校勘和訓黄帝鍼経には、同様な解釈ではなく、同書発行以後に解釈されたものと思われます。
ご参考まで!
>吉岡さん
渋江抽斎の解釈ありがとうございます。「必ずしも四支関節ならず」というところは、私も賛成です。吉岡さんのご意見、メールで届くのを楽しみにしています♪
>鉄漢さん
吉岡さんとお知り合いとは驚きです!
私の論が、丸山昌朗先生の解説と同じだったのですね!!!同じ見方をしていたことが嬉しいです。
それにしても、丸山解説にたどり着いた鉄漢さんに対して「さすが」としか言えません。同じ論を探し出してくださり、本当にありがとうございます。とても参考になりました。また、いろいろ教えてください。
このブログでここまで専門的な情報交換ができるとは思っていなかったので、なんだか不思議です。
初めてコメントさせていただきます。
霊枢に関する記述、とても興味深く読ませていただきました。ありがとうございます。
経糸と横糸の概念!納得です。
すごくワクワクしながら読ませていただきました。
大いに刺激を受けましたので、こうしてコメントさせていただきます。失礼とは存じますがどうかお許しください。
文中の『�跏工は形を守り、上工は神を守る。』
そして『�跏工は關を守り、上工は機を守る。』についてですが
前文での�跏工ー形と上工ー神
後文での�跏工ー關と上工ー機
両文の�跏と上のレベル差は同じものではない…とも読むことができるのでは?と思えたのです。
というのも、關も機も同じ“神”であると思えたのです。
神は陰陽の間に起こり(人智に於いて)測り難きもの。(『素問諺解』などより)という観点では、關も機も同じく陰陽の狭間にあるものです。
ただ、上工と�跏工の観ることができる視点が異なる…
といった理解もできるのではと考えます。
観る視点が異なれば、当然ながら刺の微(速遅)に現れます。
故に前文の�跏工、上工レベルと後文の�跏工、上工レベルとでは
その差に大きな開きがある…と。
少し古典にロマンを求めすぎでしょうか?(苦笑)
もう少し書くと、前文の“形”と“神”の対比ですが
これは有形のものと無形のもの、すなわち陰と陽の対比です。
医学を修める者は陰陽ともに診ることができないといけません。
そういった意味でも、形と神を前文に登場させ
形も疎かにはせず、神も観ることができるように研鑽すべし。
といったメッセージ。
そして、後文では・・・
無形レベルの中でも關(無形の有形・陽中の陰)、機(無形の無形・陽中の陽)ともに診る必要がある・・・
と段階を示している文ではないか?とも思えるようになりました。
長文、そして乱文で失礼いたします。
>足立さん
大変、面白いお話ありがとうございます。古典にロマンを求めるの賛成です。私も古典を読むときはロマンを求めてしまいます(笑)
この記事には足立さんの他、いろいろなご意見を頂きましたので、機会を見つけてもう一度整理したいと思っています。
熱いコメント、本当に嬉しいです。頑張って書いたかいがあります。足立さんのブログは時々拝見しております。鍼灸と古典に向ける情熱がPC画面から伝わってきます。また、どんどんコメントをお願いします。何も知らない私ですが、何か思いついたら勇気を出して書こうと思います。添削お願いします。