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陰陽師 (1) 岡野 玲子 by G-Tools |
先日、親しくしている鍼灸師さんが生き霊にとり憑かれました。
どういうことかと言いますと、患者さんの念を受け取ってしまい、体調が悪くなったり、患者さんの声が聞こえてきたという話です。除霊をしたら体が楽になり、患者さんの声も聞こえなくなったようです。今はお元気そうです。
こんなことって、本当にあるのでしょうか?
その鍼灸師さんが経験したことは本当だと思います。
ただ、それが「生き霊」の仕業かどうかってことは、慎重に考えたいですね。
霊魂の話は苦手なので「呪(しゅ)」という観点で考えてみます。
岡野玲子の『陰陽師1』(P.83-85)の中で、安倍晴明は
「この世で一番短い呪とは何だろうな」
と友人につぶやいた後、
「名だよ」
と言います。さらに、このように呪について説明しています。
「呪とはようするにものを縛ることよ
ものの根本的な在様(ありよう)を縛るというのは名だぞ」
難しいようで簡単なこと、簡単なようで難しいことを言っていると思います。
安倍晴明は霊的な話をしているわけではありません。
名がなければ、在ってもイメージすることができません。イメージは心の中に描かれる概念であったり映像や音声でもあります。頭の中では常にイメージを描きながら思考しています。そのイメージこそ呪そのものだと思いませんか。
だから、呪によって心の在様(ありよう)が変わってきます。
「あの人と会うのは嫌だな~」
と思っていれば、会う前から体の調子が悪くなることがあります。「あの人」に対しての在様は自分自身が決めています。「あの人は嫌い」「会いたくない人」という呪を自分にかけて調子が悪くなっているわけです。
病は気からという言葉がありますが、これもまた呪だと思います。
治らないと思えば「自分は治らない病気にかかった」という呪にかかります。呪は自分自身にかけてしまうケースが多いはずです。
誰かの呪をうけてしまうこともあると思います。Aさんが「Bさんは嫌な人だわ~」と言い続けていれば、Aさんの言葉を聞いているうちに、Bさんのことが嫌いになってしまうこともあるでしょう。その時点でAさんの呪にかかってしまったと言えるでしょう。
呪文は本来そういうものだと思います。誰かに言われた悪口が心の中に残ることがあります。これが呪ではないでしょうか。その悪口が心の中で増幅したとき、気分が悪くなったり幻聴が聞こえてくれば呪われています。反対に褒められたりすると、気分がよくなります。これもやはり呪です。呪によって悪くなった気分は呪によって解けます。それを除霊と呼ぶこともあるでしょう。こういう体調の変化は霊の仕業ではなく、心の仕業だと私は思います。
「言葉が人を呪う」
そんな風に考えると、言霊(ことだま)の正体がちょっとわかる気がします。
生き霊に取り憑かれた鍼灸師の話、あなたはどう解釈しますか?



コメント
面白い話ですね。これは正しいかどうかわかりませんが私はこう思います。
私自身治療家のはしくれですが治療中やはり何かが入ってくる瞬間があってスッと手から頭に向かって走ります。数分後から強い頭痛が襲ってきます。
相手の症状がひどいとかではなくなぜか入りやすい人がいて何回は入った経験をするとその人に触れるだけで、もしくは見ただけで手から頭に入ってくるのです。
私は意識の中で「悪いものが入る」という設定を潜在意識の中に入れてしまったようです。最初に入ってきた時は体調がおかしかったのでしょう。それを変なものが入ったという風に勘違いして、その体験を人に話すことによって無意識的に脳に設定してしまったと思います。
逆に言えば「入らない」というように設定していれば入らないと思います。現に今は全く入ってきません。「何かが入る」という設定と、自分が発する言葉が無意識的に自分の脳に入力されて本当に体に反応として帰ってきてしまうということではないかと思います。全て私見なので正しいとは思いませんが…
TEG OB 9 M.A
この文章の主人公の駆け出し鍼灸師です。
はじめまして。
詳しくは、声が聞こえたり、突然歩けなくなったのは、私ではなく受付の女性スタッフです。殆どその方との面識はないんです。
クリ助さんの文章、大変興味深く読ませていただきました。心理学的にいうと「自己暗示」とでもいうのでしょうかね。
本来なら、健全な精神や肉体を養うためにまずは自分でポジティブな暗示をかけるのですが、それが一歩間違うと療法ではなく自身で悪化の暗示をかけているのでしょうね。
> ムムさん
> チョコさん
興味深いコメントありがとうございます。
事実に間違いがあったようですね。ごめんなさい。
面識がほとんどない方の声が聞こえるというのは、本当に不思議な話ですよね。
自己暗示だけでは説明できないスピリチュアルな世界もあるのでしょうね。客観的現象が確認されなくても、心理的な現象が起こることは日常茶飯事かもしれません。
『身体調整の人間学』に知覚について言及しているところがあるので、書き添えます。
われわれが身体的実存のレベルにおいて、すでに意味を付与する実存だということの証拠として、メルロ=ポンティは知覚をあげている。われわれが実際に生きているがままの世界を生活世界と呼ぶとすると、この生活世界を生きる主体は、知覚の主体として考えられる(『身体調整の人間学』P.45より)