鍼灸師の間で、ときどき「理論派? 感覚派?」みたいな話がでます。どっちも大事というのが太古から変わることがない結論であることは百も承知なのですが、それは理想論であり現実的な臨床論ではないとも思うのです。このブログは鍼灸師に限らず、いろいろな人が目にしていると思うので、できるだけ専門的になりすぎないように私の考え、というより実際にどう実践しているのかという話を書こうと思います。
感覚の役割
最初に感覚の話から始めるのは、鍼灸はなんだかんだ言って感覚主導だと思っているからです。もちろん感覚だけでよいと思っているわけではないのですが、誤解を恐れずに言えば感覚で成り立ってしまう世界でもあるのです。こういう話は慎重にしなければならないことは心得ているのですが、論点をクッキリさせたいのであえてこういう話をしてみます。
「このあたりに鍼をしてみたらいいのではないか」という感覚にしたがって鍼をしていくのです。患者さんはツボだと思っている場合があるのですが、単にそこは効きそうなところなのです。一般の人が怖がらないように補足しておくと、鍼灸師はみんな「はり師」と「きゅう師」と国家免許を持っているので、刺したら危険という場所は避けます。安全な範囲で行うのが前提です。
驚くかもしれませんが、ツボであろうとなかろうと鍼は効きます。そもそもツボとして言われているところは、経絡経穴学という学説の中にあるものでしかありません。それ以外のツボは経外奇穴として学問の外で「経験的なもの」として例外的もしくは特異的なものとして扱われています。でも、言わせていただけるのであれば実に勝手な話です。
経絡経穴、つまり主要な学説の中に含まれているものを正当と考え、それ以外のものを例外的と扱うのは、生命の前というか臨床の中というか、そういう現実の中で不公平なのです。不公平だと思うのは、症状が寛解したものが、その臨床において正当なツボだからです。そのツボが名もなきツボで、「ここ効きそう」と思っただけのところであってもです。
伝統の意味
鍼灸は伝統医学と言われていますし、多くの方がこのように思っています。そして鍼灸医学は経験値の集積と考える人が多く、いわゆるエビデンスが乏しくても、確からしいものとして扱われてしまいます。人気ユーチューバーが紹介しているツボは、エビエンスが確かであるとは限りません。
Youtubeで紹介されていたツボに対して「そうなんだ」と思うことと、経絡経穴学に所属しているツボに対して「そうなんだ」と思うことの根本は同じです。
どうしたってポピュラーである方に人は傾いていきます。情報とはそういうもの、と割り切ることは大切ですが、そのいっぽうで、臨床では人気であるかどうかは重要ではなく、その患者さんにピッタリのツボを探し出すことが重要なわけです。
実際のところ、ポピュラーではないツボ、つまり誰も話題にしていないツボが劇的な成果をもたらすことも多いのです。その中には名もなきツボも含まれますし、もっと言ってしまえばその場で初めて試した部位だったりします。
どこであろうと効いたのなら、それはツボです。
市井の鍼灸師は「こうしたら効いた」という経験値がどんどん蓄積されているのです。しかし、その経験値が記録されているとは限りませんし、「熟練のなせる業」という言葉で片付けられてしまうことばかりです。伝統が経験値の集積であるならば、市井の中で生まれる経験もまた伝統になり得るのです。
ただ、実際には「伝統はポピュラーでなければならない」という暗黙のルールが存在し、本来蓄積されるべきものが数多く失われている気がしてなりません。私は思うのです。伝統というのは、経験を次世代に残そうという強い想いから生まれるものであると。残そうとするものは経験を言語化しようとする努力が必要となりますし、受け取る方も、言語を感覚に落とし込んでいく努力が必要です。
つまり、伝統というのは感覚をつないでいくことであり、感覚のリレーが核になっていると考えています。そういう考えからすると、古典を読み古典を探索する意義や価値は疑いの余地がありませんが、伝統の中を歩んでいることを必ずしも意味しません。
理論の役割
問題点を絞り込む
ここまで感覚を中心に書いてきたので、「感覚をひたすら磨け」と思われている方がいらっしゃるかもしれません。感覚主導という基本的スタンスは変わらないのですが、理論の重要性は下がりません。むしろ、磨いた感覚を効率よく使うには理論が必須です。感覚は有限ですから、どこに差し向けるかがとても重要です。
簡単に言えば、理論がなければあやしいところを絞り込むことがむずかしいのです。時間や手間がかかれば、その分がコストになって、患者さんの負担を増やしてしまいます。また、気になるところに鍼や灸をしていく方法では、対応できる症状が限られてしまいます。医学としての鍼灸、医療としての鍼灸を目指すことはできません。
つまり、理論で絞り込んだところに感覚のリソースを注ぐことで症状に関する情報をより多く得やすくなる、ということです。
感覚の解像度を上げる
コーヒーはお好きでしょうか?興味がなければ「黒くて苦い飲み物」という認識かもしれません。好きな人にとっては、産地や焙煎、淹れ方によって味が変わる色鮮やかな飲み物なんだろうと思います。知識が豊かであるほど、コーヒーの味わい方も豊かになっていくわけです。コーヒーの話はその筋の人に任せるとして、私が言いたいのは、知識によって感覚が喚起されるという事実です。
人体に触れる場合も同じです。医学の知識があるかないかで感覚は変わります。骨だと思っている硬さが、実際には筋肉のコリだったりということも。いったん骨ではないとわかれば、コリの質感や程度の変化に気がつくことができます。
この例は極端ですが、人体はとても複雑なので前提知識によって見え方や感じ方が大きく変わります。私たち鍼灸師でも、何を深く学んでいるかで育つ感覚が変わります。勉強会で鍼灸師が集まると、ある人が当たり前に感じていることが全然わからない、なんてことも普通にあります。
学んだことは、知識の解像度とともに感覚の解像度も自然に上がっていきます。知識と知識と関連付けてそこに交流をもたらすのが理論だとすれば、感覚と感覚も行き来してきます。つまり、理論を学ぶほど、人体に起きる変化の往来をとらえることができるようになります。
理論の罠
ただ、理論を重視しすぎると理論の外で起きていることに気がつくことができなくなります。小宇宙である人体を前にすれば、どんな理論も不完全です。それを忘れて理論に没頭してしまうと目の前で起きている現象と現実が目に入ってきません。感覚としても認識できません。勉強すればするほど成果がでなくなってしまうという悲惨な結果を招くこともあります。
だからこそなのですが、感覚主導であるべきだと私は思います。感覚主導というのは、理論を深めようとするほど外せないルールです。理論の罠にはまらないように「感覚>理論」という比重を保つように心がけています。理論から外れた感覚を見逃さないからこそ、新たな気づきがあり理論も充実していきます。つまり、理論を育てるのは感覚です。
このように考えると、「感覚派」「理論派」と二分する発想がおかしく思えてきます。
セミナーと合宿
私は鍼灸師向けの技術セミナーを整動協会を通じて行っているのですが、そこで主に扱っているのは理論です。セミナーの中では理論主導で話が展開されていきます。前述したように理論の罠が待っています。ある意味では、私がわざわざ罠を用意しているようなものです。そうならないように、セミナーは実技を中心として組み立てています。それで、罠はだいぶ浅くなるのですが完全ではありません。
そこで、感覚主導へと導く企画も行っています。先日、埼玉県で協会のメンバーと合宿を行いました。理論はまったく登場せず、ひたすら感じる練習です。一言で表せば触診のトレーニングなのですが、他と大きく違うのは、私たちが感じる感覚だけでなく受け手の感覚も同等に扱っていることです。ですから、練習では施術する方も施術を受ける側もどちらも主役です。
主催する私も勉強になりました。来年もやります。来年はさらにパワーアップした合宿を計画しています。

参加したメンバーがブログで感想を書いてくれました。
・『「何となく」をなくす2日間——触診・刺鍼に集中する強化合宿』(布野聡一朗)
・『鍼灸師の合宿は何をするの?』(石井佑)
・『ラーメン屋の接客に学ぶ触診の極意』(楠洋介)
・『はじめての触診刺鍼合宿』(相原圭子)
・『触診で9割決まる!!』(吉岡貴人)
・『「触る」を見つめ直す二日間。副院長の視点で書いた触診合宿レポート』(小堀広大)
・『上手い鍼灸師ほど練習している』(栗原誠)



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