「第3部 内臓につながるツボはどこにあるのか?」のつづき
古典は机上の空論ではない
前回は「合穴は内臓への入口となるツボではないか」というところまで話を進めました。古典を読んでそう解釈できたとしても、それだけでは机上の空論です。
私は臨床が本業ですから、古典に書いてあることが実際の身体で確認できるのか、ということが気になります。
たとえば、
胃合於三里(胃は三里に合す)
この文章が本当だとしましょう。では、足三里に鍼をしたとき、本当に胃に変化が起きたことをどうやって確認したらよいのでしょうか。胃は身体の中にあります。見ることもできませんし、直接触ることもできません。『黄帝内経』にはしっかりヒントが書かれています。
五臓は背中に現れる?
『霊枢』に『背腧篇』という篇があります。その冒頭で黄帝は、こんな質問をしています。
願聞五藏之腧、出於背者。(五臓の腧で、背に出るものについて聞きたい)
この質問に対して岐伯は、肺腧、心腧、肝腧、脾腧、腎腧など、五臓に対応する背中の腧を挙げていきます。現在の鍼灸師は、これらを背部兪穴と呼んでいます。
肺なら肺兪。
心なら心兪。
肝なら肝兪。
脾なら脾兪。
腎なら腎兪。
ここでも、経絡を持ち出す必要はありません。古典に書いていないのであれば、ないまま読めばよいのです。
書いてあることだけを読めば、
五臓 ― 背中の腧
という関係です。
ここで一つ問題があります。
私が確認したいのは「胃」です。胃は臓ではなく腑です。『背腧篇』で黄帝が尋ねているのは、あくまで「五藏之腧」です。ここに胃兪は出てきません。はたして「胃―胃兪」という関係まで広げてよいのでしょうか。
『素問・気府論』には、
五藏之俞各五,六府之俞各六
とあります。
六腑にも兪があると明記されています。六腑にも兪とは、胆兪・胃兪・三焦兪・大腸兪・小腸兪・膀胱兪のことです。あとは、実際にこれが成り立つかどうかですが、上記の通り問題ありません。
東洋医学の未解決問題
肺腧、心腧、肝腧、脾腧、腎腧などのおおよその位置を示したあと、
欲得而驗之、按其處、應在中而痛解、乃其腧也。
と記されています。
「欲得而驗之」は、ここでは「それらを確かめようとするなら」くらいに読んでおけばよいでしょう。「驗」は現在の「験」という字です。「驗(ため)す」と読みます。単に知識として確認するというより、実際に現れた徴候によって確かめるという意味があります。
では、何によって確かめるのでしょうか。
続けて、
按其處(その場所を按す)
そして、
應在中而痛解(?????)
とあります。なんですか、これ?
最後に、
乃其腧也(それがその腧である)
と結ばれます。
2番目の「應在中而痛解」は未解決のままです。
歴代の医家も読むのに苦労している
こういうときは、自分の都合のよいように解釈する前に、昔の人がどう読んできたのかを確認しておきたいところです。実際、この文章にはいくつかの解釈があります。明代の医家、馬蒔は『黄帝内経霊枢注証発微』で、
其中必應之,而内痛乃解
と説明しています。
「中」がこれに応じて、内の痛みが解けるという読みです。つまり、背部の腧を按すことで、身体内部の痛みが解けるという方向に解釈しています。
一方、清代の黄元御は『霊枢懸解』で、
應在於中而痛解
としたうえで、「解」を、
鬆懈
と説明しています。これは、ゆるむ、ほどけるという意味です。
このように、後世の医家も「應在中而痛解」の読み方に違いがあります。
何が「應」するのか。
どこの「痛」なのか。
何が「解」けるのか。
簡単そうに見えて、よくわかりません。でも、確かなこともあります。
按其處(その場所を按す)
触診が必要なことです。
触ってみるとわかる変化
ここで思い出していただきたいのが、
胃合於三里(胃は三里に合す)
です。
一方、『背腧篇』では、
願聞五藏之腧、出於背者。
とあります。
五臓の腧は背に「出る」。
つまり、古典に書かれていることだけを並べると、
足三里 ― 胃
という関係があって、もう一方に、
臓 ― 背中の腧
という関係があります。
この二つをつなげてみると
足三里 ― 胃 ― 胃兪
という関係が見えてきます。
実際に、足三里に鍼をすると胃兪の圧痛が解けます。ですから、私としては「應在中而痛解」の「痛解」は、背部の圧痛が消えると理解しています。
ただし、足三里の位置は正確でなければなりません。その正確さを示してくれるのは胃兪の変化です。胃兪の圧痛に変化を起こすことができる場所が、足三里の正しい位置と言うことができるのです。
「足三里は胃に効く」では不十分
私たち鍼灸師は知識として「胃経の合穴が足三里」と覚えることが多いのですが、これを丸暗記しただけでは臨床で役立ちません。「足三里は胃に効く」という程度の理解で止まってしまいます。漠然としているのです。しかし、胃兪の圧痛が変化すると理解すれば、触診でツボの効果を確かめることができます。
足三里に鍼をした応答を、患者さんも施術している鍼灸師も確認できるのです。圧痛の変化を共有すれば「鍼が効いた」という、実感を得られます。「この足三里というツボは、胃に効くツボと言われているんですよ~」とは天と地ほどの差があります。
私は「再現性」という言葉をよく使います。再現性のある鍼灸をしようと思うとき、観察対象が重要です。鍼で変化が起きても、その変化が観察しにくいものであれば再現の確認がとりにくいのです。「胃に効く」と認識してしまうと、観察がたいへんです。胃カメラか何かを使う必要があります。実際、そういう実験もあるようですが臨床ではそんなことできません。
そもそも、今回の話題は「内臓の変化は背中に出てきます」というものですから、それを利用することが鍼灸というものです。
物語として読むのではなく記号として解く
私は古典の専門家ではありません。臨床を主とする鍼灸師です。古典の読解は、いくつもの専門書を行ったり来たりしながら自分なりにやっているにすぎません。臨床の傍らですから、最初から最後まで通して読むことはできません。気になるところをその都度読んでいます。
偉そうなことを言える立場ではありませんし、何の権威もありません。一人の鍼灸師が目の前で起こる現象と古典の記載をすり合わせようともがいている姿だとご理解ください。
私の経験から言えるのは、古典を読むときは東洋思想や経絡理論に強く引っ張られやすいということです。最初は、東洋医学の入門書で概要を学び、古典を読むのはそれからになるからです。仕上がった世界観がフィルターになって、古典の中に物語を求めてしまうのです。
ここでは「合」を中心に読んできましたが、表現が簡略化されていて親切な文章とはいえません。心が温まるエピソードがあるわけでもなく、要点のみを淡々と述べているだけです。文学的要素はありません。だから、面白いと思って読んでいません。私が古典を読む理由は、現場で役に立つことがあるからです。
古典は文章としてではなく、記号の集まりだと思って読んでいます。読むというのは違うかもしれません。記号を拾っている感覚です。
古典はむずかしいです。鍼灸師なら読んで当たり前などと思っていません。読む時間があるなら他にやったほうがいいと思うことはたくさんあります。とはいえ、誰も古典を読まない世界はちょっと不安です。なぜなら、我流の鍼灸でも「古典に書いてある」と一言添えればそれらしく聞こえてしまうからです。
東洋医学っぽいもの
伝統がありそうなもの
こうしたものは古典から言葉を引っ張ってくれば簡単につくれてしまいます。私も気をつけたいと思います。次回も古典から学んでいきましょう。テーマは「邪気」です。それではまた。
つづく…昔の人は、なぜ病気を「邪気」と呼んだのか
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