鍼灸師は「治療家」と呼ばれることがあります。そのたびに違和感が生じます。この違和感の正体はなんだろう、と考えていてようやくはっきりしました。結論を書く前に、この「治療家」という言葉いつ頃から使われ始め、現在どのような使われ方をされているのか、いったん整理しておきます。
1937(昭和12)年には青山隆雄『治療家必携寳典―治療家の是非とも心得べき事項』という本が出版されているので、少なくとも1930年代には「治療家」という言葉が用いられていました。
この当時から、医師という法的職業があるいっぽうで、鍼、灸、按摩、指圧、整体・操法、精神療法など、医師とは異なる療術を行う人々がいました。この人たちをひとまとめにする便利な箱として使われ始めたと考えられます。
ちなみに、私が持つ、はり師、きゅう師、あん摩マッサージ指圧師がどのように制度化されてきたのかを整理しておきます。
明治初期~
府県ごとの取締・営業許可・免許
↓
1911年(明治44年)
内務省令「鍼術灸術営業取締規則」
→ 全国統一ルールのもとで地方長官が免許
↓
1947年(昭和22年)
「あん摩、はり、きゆう、柔道整復等営業法」
→ 戦後の資格制度へ
↓
現在
「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」
→ 厚生労働大臣免許としての「はり師」「きゅう師」
違和感① 市場としての「治療家」
ビジネスモデルが似ている職業として、鍼灸師がその枠に収められてしまっていると感じるのです。「治療家」という市場の中でお客さんをしている感覚がしてきます。
こんなニュアンスの広告を目にしない日はありません。
・治療家のための集客
・治療家のための経営塾
・治療家のためのSNSマーケティング
・治療家のための高単価メニュー
鍼灸師もこうした広告のターゲットになっています。実際、鍼灸師は治療家という市場の一部なのです。
違和感② 競合としての「治療家」
①と似ている話ですが、私たち鍼灸師は治療家と競合します。何なら、鍼灸はその中で一番最後に検討される売れ残りです。ちょっと自虐が入っていますが、鍼灸を最後の手段と考えている人が多いので実際そんなところです。ただ、彼らと競いたいわけではない、という本音が私の中にあります。話がそれますが、鍼灸師には広告制限があって、広告しづらいという事情があります。だから、こうやってブツブツ書いちゃうんですよ。
違和感③ アイデンティティを壊す「治療家」
どうも「家」という言葉が引っかかるのです。同様の表現としては、芸術家、思想家、武道家、作家など。これって、その人の生き方を表すような表現のように思いませんか。自分から言うならよいのですが、他人から「治療家ですよね」と言われると、人生のどこかを縛られてしまったような気になるのです。
また、「治療」という言葉の主体が、施術する側にあるように感じてしまいます。治療って誰がやるのでしょうか。本来は患者が行うことです。本来は患者が主体である言葉を、施術する側に使っているのです。ここにも違和感を覚えます。
治すのは患者さん本人です。私たちはそのきっかけをつくることしかできません。だから、私たちが施術をして症状が消えても、私たちが治したわけではありません。「治した」という錯覚に過ぎません。
「治せる治療家になろう」
一番の違和感は「鍼灸師」(厳密には、はり師ときゅう師)
ここまで「治療家」という言葉を否定的に扱ってきてしまったのですが、私がもっとも違和感を抱いているのは「鍼灸師」です。なんで道具の名前が免許の名称になっているのですか?
医療系の免許をいくつか並べてみます。
医師、歯科医師、看護師、助産師、保健師、薬剤師、理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、救急救命士。
で、鍼灸師。
これだけおかしくないですか? 目的を語っていません。何のために使うのか、わかりません何のために存在しているのか、から説明しなければいけないのは鍼灸師だけです。鍼灸は身体の機能を整えることが目的ですが、整体師という職業にそのポジションを奪われています。鍼灸師の目的を考えれば、鍼灸師は整体師と呼ばれてもおかしくないのです。
それで、私は何者なのか…
答えが出ないまま鍼灸師のクリ助の奮闘はつづく。
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・はりきゅう養気院(群馬県/伊勢崎市)
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・整動協会(鍼灸師のための臨床研究会)



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