「美」と言えばイタリアです。
イタリアに行ってから10年以上が経ちました。その時の経験は、鍼灸師としての私に大きな影響を与えました。そのときの記録はここに残っています。
一応、その時の記録をここに貼っておきます。
≫イタリア個人旅行記
イタリア旅行に限らず、このブログには開業してからの記録を残してあります。月日が経てば価値観や思考が変わります。その時その時のベストだと思ってやっているわけですが、残しておかないと「がんばっていたなぁ」というぼんやりとした記憶になってしまいます。
記録が証明していますが、10年前と今では知識や技能が違います。それだけではありません。自らの思考と行動、そして価値観も違います。
変わっていないこともあります。それは美学です。「美学」という言葉を使うのは気恥ずかしいですね。ただ、「こだわり」のような言葉に置き換えてしまうと、伝えたいことが伝わりません。やっぱり、ここは美学です。
美術と美学の違い
前もって書いておくと、高校生の頃の美術の成績は「2」でした。
妻に言われました。「どうしたら2が取れるの?」と。私が知りたいくらいです。私の前を素通りしていく教師。決まってある生徒の前で立ち止まり、「これ、こうしたらいいんじゃない?」なとど、コメントしていくのです。そいいう教師の態度を見て「この教室の中には居場所がないんだなぁ」と諦めていました。
教師も人間ですから、関心や興味が均等であるはずがありません。生徒によって対応が変わってしまうのは仕方ありません。誰の責任というわけでもなく、自分の美的センスが格付けされてしまったことは事実です。服を選ぶときも、家具を選ぶときも、いちいち自分のセンスを疑わなくてはならないのです。音楽も同じような有様だったので、アート系とは縁がないと諦めていました。
でも、アートが嫌いかと言えばそんなことはないのです。絵を見るのも音楽を聴くのも好きです。好きということは、自分の中にある「美しいなぁ」という気持ちに反応しているということです。教師は、美しいと感じる力まで奪わなかったようです。
誰かが美しいと感じるものを生み出す力と、何かを美しいと思う感性は別モノだったのです。それに気がついて、感性が覚醒しました。特別な能力が出てきたという意味ではなく、ただ単に、自分が美しいと思うことには素直になれるようになったのです。
それを、かっこよく言うと「自らの美学に素直になる」ということなのです。鍼灸師という職業を選んだのも、鍼灸に美しさを感じたからです。「患者さんを救いたい」というのは、職業が担う責務から生じる感情で、その奥には美しさへの憧れがあるわけです。この美しさのあこがれは個人的なものです。普段は表に出しません。今回は、それをあえて表に出してみようという試みです。
その前に美学という言葉を整理しておかなければいけません。調べると、一筋縄ではいかないほど難解な世界です。話を前に進めるために、ここでは「美しさの意味や本質を考えること」と簡単に定義しておきます。
鍼灸師にも美学が必要な理由
医学ならわかりますが、美学が本当に必要でしょうか?
こんな声が聞こえてきそうです。もちろん医学が必要で重要だと思っています。と同時に、美学がなければ、この仕事を楽しく続けていくのは難しいのではないかと思います。この辺りは賛否があると思いますが、少なくとも私には美学が必要なので、説明してみようと思います。
美しいものってずっと見ていたいと思いませんか。
私が鍼灸師を続けている理由はこれです。鍼を通じて美しさを鑑賞し続けていけるのです。どこに美しさを感じるのかさっぱりわからないと言われるかもしれません。
第一に、人体のメカニズムです。
第二に、鍼灸というツールです。
人体のメカニズムは美しいです。鍼灸師である私は、その美しさをツボを通じて感じています。患者さんも不思議に思うでしょう。
肩のコリが腰や脚に鍼をすると楽になること、手に鍼をしたらお腹がグルグルと鳴り出すこと。長年つらかった頭痛が治ってしまうこと。病院では治らなかったことが、ツボへの刺激で解決することがあります。私自身も高校生で経験しました。
まだ医学的には未解決なことばかりですが、ツボの刺激によって体にも心にも変化が起こることが間違いありません。知られざるメカニズムがあります。そのメカニズムは実に巧妙です。そして美しいのです。
次にツールとしての美しさです。
とりわけ鍼に美しさを感じています。お灸ファンの方すみません。道具として、これ以上ないくらいシンプルです。鍼には長さや太さが色々あり、先の形状も何種類かあります。とはいえ、道具としてのシンプルであることは変わりません。
鍼は刺す道具かもしれませんが、私にとっては究極の点をつくる道具なのです。「これのどこかが美しいのか?」と聞かれた時に、適切な言葉が見つかりません。極点を通じて人体に働きかけることができる、という境地のようなものに惹かれるのです。
その説明しづらい部分が、私の中にある美学なのだと思います。
鍼灸の効果を高める4つの方法
個人的な解釈になりますが、鍼治療というのは、美しい人体に美しい道具を使って働きかける行為なのです。そもそも美しいのですから、その美しさを私の手で汚してはいけないと思います。
「大切なのは治療効果であって美を追究することではない!」とおっしゃる気持ちよくわかりますので、このまま安心してお付き合いください。
美の追究が治療効果とリンクしていなければ意味がないのは承知しています。私の考えでは、両立させようとするとほど効果が高くなるのです。
「効果を高めるにはどうしたらよいか」は鍼灸師全員に与えられた課題です。乗り越えるために、鍼灸師は各々色々な工夫をしています。もちろん私も。
ツボに対する工夫は、次の4つしかありません。
①ツボの選び方
②ツボの正確さ
③ツボを増やす
④ツボを減らす
①と②は誰でも分かる話ですので、ここでは割愛します。わかりにくいのは③と④です。矛盾しているように思いませんか。ここが鍼灸師の方針の分かれ道になるところです。
まずは③から解説します。使うツボを増やしていけば、効果があるツボに出会う確率が上がります。A、B、Cとツボを使って効果がなくてもDで効果があるかもしれません。可能性のあるところはできるだけ多くアプローチしていくという戦い方です。
これに対して④は、無駄な刺激を減らして刺激の純度を上げる戦い方です。効果のあるツボがDであるならば、最初からそこにたどり着かなければなりません。そのためには、A、B、Cではないという根拠が必要です。論理的にアプローチする戦い方です。
私の戦い方は後者です。省エネであり患者さんの負担が少なくなります。仕掛けが少ないので再現しやすいというメリットがあります。デメリットは効果のあるツボを選定するために、事前の準備に労力を割かなければいけないことです。理論の差がはっきり出ます。理論によって①の「ツボの選び方」を高め、鍛錬によって②の「ツボの正確さ」を高める必要があるので、追求するには覚悟が必要です。
この戦い方を選んでいるのは、戦い方の美しさの追求だけではありません。無駄な刺激をしないことが、患者さんへの誠意だと考えているからです。
今語っているのは、美を追究した理想論です。理論でツボを絞れないときは③の「ツボを増やす」を行って補うしかありません。使うツボの数を減らすという方向で努力していく、という現実の中にいます。
引き算の美学
私の鍼灸は引き算の美学です。無駄を取ることによって、鍼灸の意味や本質が見えてくると考えています。
イタリアに話を戻します。イタリアといえば世界遺産です。58が登録されていて世界一ですす。数々の建築や美術品がありますが、その中でも際だった存在感が彫刻です。彫刻がなくてはイタリアの建築や美術は語れません。
彫刻といえばミケランジェロです。ミケランジェロが残した彫刻でもっとも有名なのはピエタでしょう。実物を見られたのは12年前です。冒頭に書いたように、妻とイタリア旅行をした時です。厳密にはピエタを観ることができたのはガラス越しです。1972年に壊されるという事件があって1973年から防弾ガラスで囲われるようになったからです。
ピエタは聖母子像の一種であり、磔刑に処されたのちに十字架から降ろされたイエス・キリストと、その亡骸を腕に抱く聖母マリアをモチーフとする宗教画や彫刻など
ガラス越しでもわかる滑らかな肉感に圧倒されます。大理石を削って制作したとは信じられません。想像が追いつきません。硬い素材が柔らかな曲線を描いていることも不思議ですが、それにも増して不思議なのは、石の塊からこの姿を削り出したことです。
ミケランジェロは、石の塊の中にこの姿を確実に描いていたのです。大理石を削り出して制作する彫刻はミスが許されません。削りすぎてしまったら後戻りができません。粘土なら足りたり除いたりしながら制作途中での試行錯誤が可能です。しかし、大理石を削って制作する彫刻に足りたり引いたりという過程はありません。あるのは「引く」だけです。
ミケランジェロの言葉を借ります。
「どんな石の塊も内部に彫像を秘めている。それを発見するのが彫刻家の仕事だ。」
大理石の中にすでに作品があり、無駄なものを取り除く作業が彫刻だと言ってよいでしょう。私が描いている理想の鍼灸と重なります。
鍼灸を受けて体がよくなるのは、邪魔なものが取り除かれるからです。本来、身体は治ろうとしているのです。治らないときは治ろうとするはたらきを何かが邪魔しているからです。それを取り除き、本来の状態にするのが鍼灸の役目だと考えています。
おこがましいことですが、恐れずに言えば、
「どんな身体も内部に健康を秘めている。それを発見するのが鍼灸師の仕事だ。」
と言えるのです。
鍼灸師の仕事というのは、元から存在している健康体を掘り出すことにあるのです。ちまたには「○○のツボは○○症に効く」という情報で溢れています。そういうのを見るたびに「考え方が薬っぽいなぁ。そういうんじゃないんだよなぁ」と違和感を抱いています。
薬の作用と鍼灸の作用は根本的に違うものです。同じ尺度では語れません。ただ、時代の流れはその逆を行っているようです。湯液(漢方薬)の理論を鍼灸でも利用する中医学が鍼灸学校の教育の主役になっているので、「薬とツボは同じように考えましょう」という傾向が強くなっています。
漢方薬と鍼灸が同じ理論だったら便利ですが、私が提唱している引き算の鍼灸が理想であるように、この理論も私に言わせれば理想です。中国の国家戦略で中医学が世界に広まっています。日本の東洋医学教育も中医学が主流になっています。
こうした流れがあるいっぽうで、日本らしい鍼灸を考える鍼灸師がいてもよいかと思います。日本らしさのヒントになるのが引き算の美学です。今回はイタリアを舞台に話をしてきましたが、日本は引き算の美学の宝庫です。
この「引き算の美学とは?具体例を交えて詳しく解説する」では引き算の美学を「THE FIRST TAKE」のコンセプトなどを例に挙げて、わかりやすく解説しています。
「白いスタジオに置かれた一本のマイク。 ここでのルールはただ一つ。 一発撮りのパフォーマンスをすること。」
鍼灸師が置かれている状況と似てません?
このページでは、引き算の美学を次の一文にまとめています。
「目立たせたいものをより際立たせるために、必要ではないものを削ぎ落とすこと」
鍼灸治療においては、
「使うツボの効果をより際立たせるために、必要でないツボは使わないこと」
ということになります。
三次元の芸術
私が彫刻をリスペクトしているのは、引き算だけではありません。
ミケランジェロはこんな言葉を残しています。
「二次元で表現する絵画よりも、三次元で表現する彫刻の方が上である」
実に興味深い言葉です。ミケランジェロは絵画も手がけていますから、絵画も知っている者の言葉です。もっとも有名なのは、バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂の「最後の審判」です。
撮ってきた写真を載せようと思って探してみたら一枚もありません。調べてみたら「礼拝堂内部は全面撮影禁止」だったからです。
代わりに、ミケランジェロの影響を強く受けたと言われているラファエロの絵を置いておきます。現地で撮影してきたものです。

彫刻は三次元です。鍼灸も三次元が肝です。学力テストや国家試験は二次元で成績がよければ受かりますが、臨床は三次元の世界です。世界が違うのです。
二次元で優秀だった学生が、三次元では苦戦することは珍しいことではありません。三次元で人体を観られることは鍼灸師の才能の一つです。三次元のまま観ることは簡単ではありません。つい教科書に合わせて二次元に落として処理をしてしまいがちです。
鍼灸師が腕を磨くというのは、指先を器用にするだけではないのです。認識能力と記憶能力を三次元化していくことも大切なのです。言うは易し行うは難しです。日々の練習や実務で伸ばしていく他ありません。
最後に、モーツァルトの興味深い言葉を紹介して終わろうと思います。
「わたしは見事な絵画や美しい彫刻を見るように、一目でその曲を見渡すことが出来ます」
音楽に疎い私にはまるでわからないのですが、頭の中でメロディを流すことなく、瞬間的にその曲を把握できるという意味だと思います。メロディが流れるには時間が必要ですが、モーツァルトはその時間が必要ないのかもしれません。時間を頭の中で自在に圧縮したり展開できる能力があるのでしょう。私には意味不明の能力です。
まとめ
鍼灸の魅力を引き算であると感じているのは個人的な話です。他の鍼灸師がどのような職業観をもっているのかわかりません。この記事では、私が持っている職業観や美意識を紹介してみました。普段はなんとなく思っていることを言語化することで多くの気づきがありました。
イタリアにもう一度行ってみたいという気持ちになりました。この記事を書いているちょうど12年前はヴェネチアにいました。年明けの花火で大興奮でした。

また行きたい。

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