経絡はいつ生まれたのか(2) ツボは経絡から生まれたのか

ツボは経絡から生まれたのか

経絡はいつ生まれたか(1) 見える「絡」と見えない「経」のつづき

前回は、『黄帝内経』に出てくる「経」と「絡」をいったん分けて考えてみました。現在の私たちは「経絡」という完成した言葉を知っています。でも古典を読んでいくと、経と絡は区別されています。

さらに古い時代まで遡ってみると、「経絡」どころか「十二経脈」も出てきません。そこにあるのは、「脈」です。今回はさらに時間を遡ってみます。今回は原文は読みません。古典が書かれた時代を想像しながら鍼灸のルーツを探しに出かけます。

墓の中から出てきた医学書

1973年、中国湖南省長沙市にある馬王堆の漢墓から大量の文書が発見されました。その中には医学に関する文書もありました。

注目したいのは、

 『足臂十一脈灸経』
 『陰陽十一脈灸経』

です。

現在の十二経脈ではありません。十一脈です。しかも、そこに現在のような経穴体系はありません。

肺経があって、その上に中府、雲門、天府、尺沢……とツボが並んでいるという世界ではありません。これだけを見ると、こんな結論を出したくなります。

ツボよりも脈の方が先にあったのではないか。

実際、そのように考えたくなるのも無理はありません。古い医学書には「脈」があり、「ツボ=穴」がない。後の『黄帝内経』になると「経脈」と「経穴」が出てきますので、

 脈 → 経脈 → 経穴体系

という順番だったのではないかと推測すると話は早いのですが、私はこのように考えていません。ここからは私の考えになります。史料から確定できる話ではありませんが、順番に説明してみます。

「書いていない」と「存在しない」は違う

馬王堆の医学書にツボが書かれていないからといって、その時代にツボという発想が存在しなかったことにはなりません。私たちが現在見ることのできる古代の医学書は、当時存在した医学書のすべてではありません。

失われたものが当然あったでしょう。そもそも文字にされなかった知識もあったはずです。

治療技術であれば、なおさらです。

 ここを押すと腹が楽になる
 ここを刺激すると首が動きやすくなる

そんな経験則があったとしても、それが体系的な医学書として残されていたとは限りません。ですから、現在発見されている古い文献に書いていないということと、当時その発想が存在しなかったということは分けなければなりません。

馬王堆の医学書は「脈の方が先だった」という証拠にはなりませんが、「ツボが先だった」という証拠にもなりません。

なぜ「ツボが先」だと考えるのか?

ここからは史料から確定できる話ではありません。私自身の仮説です。私は以前から、経絡よりもツボの方が先だったのではないかと考えています。

理由は単純です。ツボの発見には、大がかりな医学理論が必要ないからです。最初は、身体のどこかを刺激すると、離れたところで何かが変わるという気づきを得たはずです。たとえば次のように。

 痛みが軽くなる
 動きやすくなる
 腹の調子が変わる
 呼吸が楽になる

ツボを認識するには「ここを刺激したら、あそこが変わった」という気づきがあれば十分です。ツボの出発点は、こうした素朴な身体観察だったのではないかと想像しています。

経絡には思考の痕跡がある

経絡理論ができるまでの過程を想像してみます。

身体に線を描き、

 十一に分ける。
 十二にする。

そして、

 陰陽に分ける。
 臓腑と結びつける。
 経と絡を区別する。

さらに、

 全体を循環する構造とする。

ここまでの道のりはかなり複雑です。経験則からパッと出てくるような理論とは思えません。数多くの身体現象を整理して、一つの理論にする膨大な作業が必要です。

つまり、

 ツボは「現象」のみで語れる。
 経絡は「現象をつなぐ理論」を必要とする。

私は、この違いを大きいと思っています。もちろん、「単純なものは古く、複雑なものは新しい」というだけで歴史を決めることはできません。そんなことをしたら、それこそ想像で古典を読むことになってしまいます。

ですから、これは証明ではありません。ただ、ツボのような局所刺激による身体反応の発見があり、それらを整理していく過程で脈や経絡の理論が発達したという順序は、少なくとも検討する価値のある仮説だと私は考えています。

原始体験が「経絡」に集積されたと考える

ここでもう一つ考えなければならないことがあります。仮にツボが先だったとしても、最初からそれを「穴」と呼んでいたとは限りません。

現在の私たちは「ツボ=経穴」と考えます。鍼灸師は「経穴」を正式名称として習います。「経穴」には「経絡に属する」という意味が含まれています。経絡理論ありきでツボを習っているわけです。

しかし、実際は「この辺りを刺激すると何かが起こる」程度の知恵からはじまり、反応する場所が絞られ、名前がつけられ、治療法が生まれ、あとから経絡理論という器に乗ったという順番かもしれません。

最初は「ツボ」とか「穴」とか、できあがった認識ではなく、「身体のある場所を刺激すると、別のところで何かが起こる」という漠然とした原始的体験だったのでしょう。

こうした原始的な体験が蓄積され、それを整理するための器として経絡理論が育っていったのかもしれません。逆に言えば、経絡という共通の地図ができたことで、それまで個別に存在していた経験を、一つの体系の中に集積できるようになったとも考えられます。

経絡は、身体経験を共有するためのプラットフォームでもあった。

私には、そんな見方もできるように思えます。

馬王堆で発見された理論の原石

そう考えてから馬王堆の医学書を見ると、見え方が少し変わります。そこには十一の「脈」があります。しかし現在の十二経脈とは違います。現在のような経穴体系もありません。そして、脈はそれぞれ独立性が高く、後世のような全身を一周する循環系にはなっていません。

これは何を意味するのでしょうか。

私はここに、経絡理論がつくられていく途中を見ることができるのではないかと思っています。

 十一だったものが十二になる。
 独立していたものがつながる。
 臓腑との関係が整理される。
 経と絡が区別される。
 ツボとの関係も整理されていく。

そして最終的に、現在の私たちが「経絡」と呼んでいる壮大な身体の地図が出来上がっていく。そう考えると、経絡は古代の誰かが一度に発見したものではなさそうです。何世代もの人が身体を観察しながら、少しずつ書き足していった地図だったのではないでしょうか。

点と点があればつなぎたくなる

ここからは、さらに私の想像です。

身体のここを刺激すると、あそこが変わる。別の場所を刺激すると、また別の変化が起こる。

そんな経験が積み重なっていくわけです。すると人は、それらの点に何らかの関係があるのではないかと考え始めます。そして、点と点をつなぎたくなります。古代の人が星空を結んで星座をつくったように。

その結果として「脈」という線の概念が生まれたのか。あるいは「脈」という身体観と、刺激点の発見が別々に発達し、後になって統合されたのか。今のところ私にはわかりません。

正解がわからない話ですから、私以外の考えも紹介しておきましょう。

医師・鍼灸臨床家で、『黄帝内経』の研究でも知られる丸山昌朗氏(1917–1975)は、1961年の論説「その実在性について」で、「この経絡パターンの発見は鍼術を飛躍的に向上させた。 そうしてこのパター ンを骨子として、さらに当時の思潮であった陰陽五行説で肉づけして、人 体の病生理を体系だてたものがいわゆる経絡説である。以上のごとく経絡の発見は実験的事実によったものと推定される。」と述べています。

異常感覚が理論化された

丸山昌朗氏はこのようにも書いています。

「鍼を人体に刺せば響きと称せられる異常感覚が生じる。この感覚の走向が、経絡パター ンである。」

丸山氏の説に従えば、経絡パターンの出発点には、鍼によって生じる「響き」という身体現象があったことになります。これは私の「まず身体で起きる現象があり、それを後から理論化したのではないか」という考えと重なります。 ただし、丸山氏が「ツボが先だった」と主張しているわけではありません。そこは分けておく必要があります。

次回は「脈診」について考えてみたいと思います。
つづく…(3)見えない経絡をどうやって診たのか

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